昭和57年1月9日 朝の御理解
x御理解91節 「本を執って道を開く者はあられぬ行もするけれども後後の者はさう云ふ行をせぬでも容易うおかげを受けさせる」
私がお商売が出来なくなっていよいよ修行が苛烈になって参りました頃です。ずうっとお粥さんの一食修行でござましたから、それに時々断食修行があるんです。
ですからもうこれ以上はやせられないと言う様に、もうあの時分の写真を見ますと身体がこう「く」の字になってますねえと言う位に言うなら修行させてもろうておる、ある日。椛目の方へ帰らなきゃなりませんのに。あんまりやせるもんですから両親が非常に心配致しましてねえ。どうかあるとぢゃないかと言うて心配するんです。そいで神様に私がこうやって一食修行したり断食を修行をいたしたり致しますと、もう身体がこうやって細ってしまいますけれども、どうぞ肥えさせて下さい。でないと親が心配致しますから。
まあ無理なお願いも又無理な。今から考えますと苛烈な修行させて頂いとる時ですから、願う事もまあ、ある意味で無茶苦茶な願いもね。そんなに断食から断食と言ったような時に、肥えられるはずがない。けれどもそんなお願いをさせて頂きましたあと、z神様からその時分まで私は頭を七三に伸ばしておりました。そしたら今日は帰る時に散髪をして帰れと頂いたんです。散髪致しますとね顔が大きく見えるんです。それで私その時は帰らせて頂いたら、ちった肥えたごたると言うて両親は大変喜びました。まあ今日はねえ、しきりとその時のことを御祈念中に頂くんです。したら今日の御理解で本を執って道を開く者はあられぬ行もするけれども、後々の者はそう言う行をせぬでも容易うおかげが受けられると言うのが今日の御理解ですよね。
まあ言うなら私まあ兎に角あまりにも難儀が続きますから、もうどんな修行してからでもと言う気持ちがありますから。先覚の先生がなさったと言う修行を聞いてはそれをもう片っ端からさせて頂きまして、今考えてもようあんな修行が出けたと思う位でしたね。
ところが今はどあでしょうかね。合楽ではそう言う修行を例えば修行生の先生方でもしてはならない、したら破門だとさえ言われる位。表行と言う事は全廃になりましたね。それでいて表行する以上の信心のおかげとが頂けれる。
もう金光教の信心で言う天地書附の和賀心と言いね。我情を取らなきゃいけないよ。我欲を取らなければいけないよ。でなかったらおかげを受けておっても、おかげをおかげと感知する事が出来ない。我身は神徳の中にあっても神徳の中にあるんだなあと言う実感が生まれてこないね。
いわゆる我情我欲を離れて真の大道を開きみよ、我身は神徳の中に生かされてありと言う事が、我情我欲を取らなければね。実感が出けない。ところが最近合楽でいわゆる表行も全廃であると同時にね。心行、信行、家業の行と言ったようなね。皆さんが今朝、寒修行なさっておられるのは信心の行ですね、信行。皆さんが心の上に言うならばなさる行を心の行ね。
それは例えば入って来る時に履物がこう乱れておった。それを自分も勿論揃えて上がるけども乱れておるら、それを揃えて上がってくる。これは、私は心行だと思いますね。 きちっとせにゃ好かんと言うのぢゃなくてね。後からお参りをしてくる人達がね。きちいっと履物が並べてあるとするなら気持ちがいいだろうと思うから揃えるのですね。後に使われる方達が気持ちよう使われる事の為にまあ、言うならばここではお手洗いなんかにまいりましたらね。紙がきちっとこう三角に折ってあるね。後から使う人が気持ちがよい。そう言う思う心がすでに心行なんですね。 言うならば、ですからその気になれば容易う心行が出ける、又は信心の行ですね。朝参りなら朝参りと言う寒修行は信心の行であります。だから、それを難しいしと言えば今日の御理解は分からない事になります。
容易うと言う事は朝もいつまってん寝とったっちやよか。もう自分の好きな放題をしてよいと言う、ここではまあ人間が人間らしう生きる手立てと言ったような事を説きますからね。そこを間違えると言う事。そうしてなら合楽理念に基づく心行が段々出けていっておりますと、不思議にね。我情が取れ我欲が取れハハアこれが和賀心かと思わせて頂くような心が生まれてくる。
教祖様が仰っしゃるように十年と信心を続けさせて頂いたら我ながら我心を奉れと言われる事がね。私は今合楽理念をここで説かれるようになってそれを思うです。合楽理念に基づく信心修行が出けていっとるなら、もう十年もせんでもね。もうこれが和賀心であろうか。自分ながら我情が取れ我欲が取れておる姿にびっくりする位です。我情を取ろう、我欲を取ろう、我賀心になろうと思うた時にはなかなかなれなかったけれども、いわゆる心行、信行、家業の行、例えて言うならばね。いよいよ土の心なら土の心、黙って治めるなら黙って治めると言う事に徹して行っておりますとです。
その一番ね、願われておる神様も願われておる、私共も願っておるところの和賀心にもなれる。我情も取れる、我欲も取れる。そこには成程我身は神徳の中に生かされておるんだなあと言う事をね、感じれれるようになるのですね。これはまあ合楽の独壇場のように言われますがね。
昨日は金光青年が送ってまいりました。皆さんも今度二百五十でしか送って来てないですから、早く求めないとなくなりますが、今度合楽を紹介してのは見事。合楽の信心、合楽理念を私共の四人の子供達が士農工商のそれぞれの立場でです。
そりゃあもう見事にあの話しをしております、説いております。それはです。言うならばそう言う、なら合楽理念がそれぞれに言うならその気になれば容易う行じていけれると言う修行でありね。同時になら昨日まあ合楽の宴であんなに沢山な御参拝があった。そして一人一人があのクジを引かれてもうそれこそ一人一人の上にね。もう的確にこうね。まあ今年の信心の姿勢とかハハア自分はここを改まらなきゃいけぬのだなと言ったような事を適切に皆さん感じられたでしょう。
日頃の願いと言うものは神様は受けて下さってあるなあと思わずにはおれないクジを頂かれたでしょう。例えば久富正義先生が引いておりましたのはね。大願の氏子に金光大神が身代わりになると仰っしゃる、あのクジでしたよね。
皆さんご承知のようにふんなら正義先生がね、あの、合楽教会にかける大願と言うものを神様が受けてござる、見通しであると言う事を感じますね。古川先生が引いたのは合楽様がバックと言った。もうそれ、まあ一人一人、私のは有難く頂く?何ぢゃったかな頂きますと言う心。こっちが忘れっしもとる。もう、これは私の血に肉になってしまっとるから忘れるんです。ね覚えとく必要はないでしょうが。皆さんが私を見て下さってるとおり、どう言う事でも言うならば、この有難く頂く心ね。
食物訓にもありますように、有難く頂くと言う心あらば障る事はないと言う、よい事悪い事。今までこげな事は御無礼な事ではないだろうかと思う事でもね。有難く頂く心があるから障らないね。だから言うならあのう、昨日のクジを引かせて頂きましてもなら、ハハアもう本当にもうその人の信心になっておると言う表現と又これからはこの事に精進せろとか、又各自各自の願いと言ったようなものが、クジの中に出ておりますね。
ハアもう向うから拍手喝采が起こってくるようなんかは、日頃もうそう言う信心が出けておられるから、あの拍手のだと私は思います。言うならばです。言うならば後々の者は容易うおかげが受けられると言うのはね。もう教えの言うなら生き方、指針と言うものがね、こう言う生き方でいけばとはっきり教えて頂けると言う事だと思うんです。
後々の者は容易うおかげが受けられると言う事はもう言うならね。朝寝坊したっちゃよい、もう自分のよか事してよいとね。そげんしておかげが受けられると言うのぢゃないでしょうが。お互いがおかげを受けたい、どう言う信心さしてもろうたらおかげが頂けるだろうか、お徳が受けられるだろうかと思うでしょう。それをこう言う信心をすればお徳が受けられるぞ、こう言う信心を頂けばおかげが頂かれるぞと。ここはお前改まらなけれはいけないぞと容易う的確に教えて頂けると言う事が私は容易うおかげが受けられると言う事だと思うんですね。
だから信心はしなければならんのです。けれども言うなら私共が過去においてです。それこそあられもない行をさせて頂いて、ふんなら今日これは合楽の特異性、独壇場と思われるようにです。
昨日の言うならば合楽の宴に表われておるその働きと言うものは、これはもう合楽独自のものだと。ならそれを元をたどるとどう言う事かと言うと。言うなら本を執って道を開く者はあられぬ行もしておるから今日、容易う行が出ける。容易う信心が出ける。容易うどころか、嬉しう楽しう有難う愉快にまでなっていけれる手立てが合楽で説かれてあるのです。
だからそう説かれてある、それをいよいよ行じなければおかげは受けられんです。そうでしょう。容易うと言う事はもう参らんでよか、お願いしときゃもう電話ででもよか、勿論よかです。おかげは受けよるです。けれどもいよいよ信心を進めていきたい、お徳を受けたいと言う事になるとやはりね。私共の信心のあり方と言うものを教えて頂き、しかもその気になれば容易うそれを行じていかれる。 容易うだけではない、楽しうなる、嬉しうなる。いつのまにこの我情が取れたであろうか、我欲が取れたのであろうかと思うような体験が生まれてくる。ハアこれば和賀心だなと。成程十年もこう言う信心させて頂いとんなら我ながら我心が奉れるような信心が出ける為にはね。教えを本気で行じなければならないと言う事。
今朝から私は、まあそのあられもない行をさして頂いとった時代の特に兎に角、私がやせ細ったんでは親が心配をいたしますね。私の信心はもう只親に安心してもらいたい、喜んでもらいたいの一念でしたから。こんなにやせ細っては帰るたんびに親が心配をいたします、どうぞ肥えさせて下さいとまあ、無理なお願いさせて頂いたけれども、そこに神様はね手立てとして、ほんなら散髪をしていけと。それ以来私は坊主で何十年間おかげを頂いておりますね。
散髪をいたしましたら何とはなしに肥えて見えた。はあちった肥えたごたると言うて親が喜びました。だからね、そう言う例えば表行の激しかった時代の信心を思うてみるときにです。今日ほんなら合楽で合楽理念に基づく、昨日私の方の四人の子供たちがあちらの編集をなさる記者の方と一問一答しておるが、もう士農工商のそれぞれの立場、成程それぞれの信心をです。語っております。
それを四人の信心を集めると、これが合楽の信心だなとはっきりこう浮き彫りにされるような感じでお話を、神乍らな事だなであるとこう思わしてもらいますね。容易うおかげを受けられると言う事を間違えないように、容易うと言う事は的確に教えが頂けると言う事。だから、それを行ずると言う事は私共が断食をしたり水行をしたり様々な行をさせて頂くように難しい事ではなくてね。
その気になって行ずる事になると楽しうなってくる、有難うなってくる。しかも一番お道の信心の根本であるところの和賀心にも、いつかなっていっておる自分に気が付かせてもらう。我情が取れ、我欲が段々少なくなる、なくなっていっておる自分に気が付く時にです。我ながら我心を私はお奉りがでける時である、拝める時であると思うんです。
昨日宮崎の網まつ子さんが前日お正月にお夢を頂いたね。そのお夢が川の淵に立っておると誰かがさあ飛び込め、もう飛び込めと言って、その飛び込めとこう言っておる。それでその飛び込んだら上がってくる時にこんな大きな鯉を頂いて上がって来たと言う事である。昨日何枚か正月にこんな歌が出けたと言うて持って来ました。「白玉や檜舞台にいざ舞わん神の願いの浦安の舞い」浦安の舞いと言うのは安心の出けれると言う意味の舞だそうですね。
その夢と自分が頭に浮かんだと言うこの歌とをこう合わせる、もうはっきり答があるわけですね。
飛び込め飛び込め、そこにはお徳が受けられる。自分の願いと言う事よりも今のあんたにはお徳を受ける事が先なんだと言う様なね。例えば教えを頂いて御覧なさい。やっぱりそこに踏ん切りがつかなくてもついてくるのです。
鹿児島の佐田さんが頂いておりましたように、この人は去年一昨年学院に行くべき修行さして頂いて、もう行くばっかりになったんです。ところがある教会のある先生がその中傷された。そいで向うの学院長が一年遅れて入ってくれと言ったような事になって一年遅れたら、又今年も遅れる様な感じ。
したら昨日頂いとるクジを引いたらね。人力に見切りをつけて神力にすがれ人力自から湧くと言ったような。ここで腹め決めなきゃ決める時はないと言ったような感じの教えを頂いておる。網さんにしたって同じ、いわゆるその佐田さんにおいてもしかりね。 坂根まつ子先生が今年学院にほんのまあ新婚早々ですかね。ところが去年の合楽の宴の時に座行か何かて言う御理解を頂いたんです。だから夫婦の者がその踏ん切りをつけんわけにはいかんね。本当に結婚したばっかりの所へですよね。これは道の言うなら教師と結婚をしたりした以上は自分も又教師の資格を頂かなければならん。
そこで踏ん切りをつけて今年はいわゆる、あの行ったでしょう。それがね。神様が一分一厘間違いのないお計らいの中にそれを引き当てたと言う実感が私はそう言う元気な心も出たんだと思います。だからそこで元気な心を只容易うおかげが受けられると言うのです。なら、ここをお前改まれよと的確に例えばなら昨日のクジの中で頂いたとするならば、そこに踏ん切りをつけられん所をつけて改まっていくと言うおかげを頂かなければいけないと言う事なんです。
容易うおかげが受けられる言うのは合楽の場合には、そうせずにはおれないような働きが起こってくるのですね。だから言うならばどけんしてよいか迷うとりますと言う様な事を、迷いなんかはいらん事になるわけなんですね。神様が的確に教えて下さるのですからね。 そう言う事も私はほんならね。いわゆる本を執って道を開く者はあられぬ行もしてから、今日より本当な事から真実な事が分からして貰うて今日の本当な事を皆さんに説いておる。その説いておる事は決して難しい事ではない。楽しう嬉しう有難う、しかも愉快にまでなっていけれる手立てを説いてあるのですから、皆さんがその気になってやっぱ守るとか心行、信行、家業の行と言う様にです。 その行に取り組まなければいけないね。それを苛烈なとかね。とても人間技では出来ないと言ったような行ではなくてね。日々の生活の中にそう言うしかも的確に私がさしてもらう行を教えて頂くのですからね。いわゆる信心の稽古をさして頂こうと思うとに、ほんならこう言う稽古せろと教えて貰えるんだから。
こんな容易い事はないぢゃないですかね。容易うおかげが受けられると言う事を間違えないように、そして頂いたそれを一つ的確にです。表わしていけれる信心が私は容易うおかげが受けられる事だと思います。「どうぞ」